湊口神社の由緒
創立年代は不詳であるが、三原平野の大半が海水で満たされた入江であった頃、古代淡路・御原の海人族が御祖神を祀るために建立したのが創建の由来とされている。御祭神の速秋津比古神・速秋津比売神は伊邪那岐命と伊邪那美命の神生みの神業によって御出現なされた水戸神であり御両神から沫那藝神・沫那美神・頬那藝神・頬那美神・天之水分神・国之水分神・天之久比奢母智神・国之久比奢母智神など重要な神々が誕生している。また女神は日本最古の祝詞である大祓詞に「速開都比売」として登場し祓の神とされている。
文徳天皇(850〜)の御代に神階正六位、清和天皇(858〜)の御代に従五位下、光孝天皇(884〜)の御代に従五位上に列せられた。平安時代、当地は国衙(国司庁)の外港として栄え、967年に施行された延喜式神名帳に記載されている式内社である。それ以降、祈年祭に国司の幣帛を受けたことからも千有余年の星霜を経た古社であり、古代海人族活躍以来の当社の重要性が朝廷に認められていたことがうかがえる。934年(朱雀朝)山陽・南海道に藤原純友の反乱が興り、藤原国風が戦勝祈願に当社を参拝、その甲斐あって反乱を平定した。これを受けて神階正四位に叙せられた。源平の戦い(1180〜85)で源義経が平教経と南海で戦う時、当社に佩剣を奉納して快晴を祈ったと伝えられる。当時、社は湊浦明神谷の上に鎮座していたが、眼下往来の船舶が神慮にふれて度々難破していたので湊字大明神の地に遷座した。
安土桃山時代には戦国武将淡路十人衆の一人である安宅氏の崇敬を受けていたが、1581年に羽柴秀吉によって滅ぼされ、1615年には阿波藩主の蜂須賀氏の治世となり、筆頭家老の稲田氏が洲本城代となって淡路を治めた。
江戸時代は寺内氏(智積寺)が別当であったが、明治元年神仏分離令によって、湊浦庄屋の菊川有年氏が社掌に任命された。明治6年郷社に列せられたが、明治39年神社合祀令によって現在地である八幡神社に移転合祀する。明治45年に神饌幣帛料供進神社に指定されている。昭和6年に湊口神社・八幡神社の神輿2基改修、昭和28年に宗教法人湊口神社が発足し、平成5年に八幡神社神輿改修、平成6年に社務所改築、平成18年に座倉解体・玉垣建立・神門改修、平成19年に座倉再建を行い現在に至っている。
厄除
古来より数え42歳は男子の大厄と言われ人生の一番大きな節目と言われます。淡路島でも南あわじ市一円、特に鳴門海峡に近い地域では全国でも珍しい「棚流し」と言う厄祓いが行われています。これはイザナ神の禊祓いや渦潮の神・祓戸の神とされる速開都比売神の鎮座と深い関係があり、鳴門の渦潮の近郊ならではの伝統行事です。
(御祭神)速秋津比古神・速秋津比売神
当社は古代淡路・御原海人族の御祖神である速秋津比古神・速秋津比売神を奉斎する全国でも数少ない神社の1つです。当社が鎮座する淡路島は国生み・神生み神話の舞台です。イザナギ神から皇祖神であるアマテラス大神が誕生し、速秋津比古神・速秋津比売神もまたイザナギ神・イザナミ神から誕生しています。アキツ両神は水戸の神として「古事記」「日本書紀」に登場しており、両神から主要な神々が生まれています。
ハヤアキツヒコ = ハヤアキツヒメ